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「守りの経営」に拍車 出遅れた変化への対応

リーマンショックもののコラムです。

 

「100年に1度」の金融危機を引き起こしたリーマンショックから10年。当初は影響が薄いとみられていた日本経済も大きな痛手を負った。各業界で起こった「変化」を検証する。初回は震源地の金融だ。

「まさか潰れるとは考えもしませんでした」。康井義貴(当時23歳)は「あの日」のことを、こう振り返る。2008年春に大学を卒業後、リーマン・ブラザーズの日本法人に入社して半年。寝る時間以外は仕事に明け暮れるという、外資系金融マンの典型的な生活にようやく慣れてきた頃の出来事だった。

 入社後、それまで60ドル近辺で推移していたリーマン・ブラザーズの株価は、50ドル、40ドルと日々下がり続けていた。会社がただならぬ状況にあることは想像できたが、どこかの米金融大手に買収されるか、金融当局による救済策で決着すると予想していた。それだけに9月15日、祝日にもかかわらず所属部署の社員が六本木ヒルズのオフィスに集められ、「(米国の本社が)残念ながらチャプターイレブン(米連邦破産法11条)を申請した」と聞かされたときは驚いた。

 職場を失った康井は、ほどなくしてシリコンバレーのVC(ベンチャーキャピタル)に転職。そして12年、QRコード決済の草分け的存在となるオリガミ(東京・港)を設立する。日本におけるフィンテックのパイオニアとして奮闘する同社の今のオフィスがあるのは、くしくもリーマン日本法人があった六本木ヒルズの31階。まさか10年前とまったく同じ場所で、全然違う仕事をすることになろうとは──。

 世界を席巻した米国の投資銀行は、日本でもM&A(合併・買収)の陰の主役となるなど存在感を示してきた。リーマンもその一社だった。あれから10年。今度は康井が立ち上げたようなフィンテック企業が既存金融を脅かす存在として注目を集める。米投資銀行からフィンテックベンチャー経営者へ。康井の変わり身とは対照的に、日本の金融機関は変化に乏しく、時代に取り残された。

不良債権の教訓生きたが……

 「あとで考えるとあれはバブルだった。でも、真っただ中にいると『何でもうかっている商品なのに扱いを止めなきゃならないのだろう』って思ってしまうのが人間の本性でしょ」。康井の上司で元リーマン日本法人社長だった桂木明夫は金融危機をもたらしたサブプライムローンについてこう振り返る。

 リーマンショックをもたらしたのは米国の住宅バブルだ。サブプライムローンと呼ばれる低所得者向けの住宅ローン債権を証券化し、金融商品として次々と流通させた。さらに値上がりする住宅を担保に新たな借金をする「ホームエクイティローン」で身の丈を超える生活を楽しむ。米国の「浪費」で世界が好況を謳歌した。

 そんなバブルがはじけると、強大な力を誇っていた米国の大手金融機関が次々と破綻もしくは破綻寸前に追い込まれる。バンク・オブ・アメリカがメリルリンチを救済合併するなど、業界地図は一変。株価や住宅相場の暴落で多くの人が資産を失い、大量のレイオフで失業者が街にあふれた。

 日本も無縁ではいられなかった。当初、経済財政担当相の与謝野馨(当時)は日本への影響について「蜂が刺した程度」と話したが、株価暴落と急激な円高が直撃。金融市場でマネーが枯渇し、大手企業も資金繰りに四苦八苦する事態となった。

 もっとも、日本の金融システムが大きく崩れることはなかった。サブプライムローン関連商品をほとんど取り扱っていなかったことに加え、1990年代の金融危機後に進めた不良債権処理や資本増強が一巡していたからだ。「山一証券の廃業や北海道拓殖銀行の破綻の混乱に比べれば、リーマンショックは大したものではない」。2008年当時に大和証券社長だった鈴木茂晴(現・日本証券業協会会長)はこう振り返る。

 だが、傷が浅かったことは結果的にはあだにもなった。業界再編が起きるほどのインパクトがなかったゆえに、旧来型の体制が温存されたからだ。

 リーマンショックが発生した08年、メガバンクに入行したある男性行員は驚いた。「志望通り法人営業の仕事に就いたが、融資などを通じてどれだけ収益をあげたかではなく、貸し倒れに備えた引当金をいくら減らしたかが評価の対象だった」。日本の銀行には、不良債権の削減で生き延びた体験が染みついていた。

 経営トップの中にも反省はある。みずほフィナンシャルグループ社長の坂井辰史はこの10年を振り返り、「守りの姿勢、失敗しないことを優先しがちなマインドセットを変えられず、収益力に課題が残っている」と話す。

 もちろん、銀行だけに責任があるわけではない。09年に施行された中小企業金融円滑化法は、資金繰りに窮する融資先企業から返済猶予の申し込みがあった場合、できる限り応じるよう銀行に努力義務を課した。だが「経営改善計画があるわけでもないのに、既得権のように返済猶予を迫る融資先もいた」(西日本の地銀の法人営業担当者)。のが現実。混乱を避けるための政策とはいえ、リスクを取って企業を育成するという役割は二の次となった。

 大きな要因は2000年代初頭から米国で増えたサブプライムローン。返済能力の低い低所得者向け住宅融資のことだ。金融機関はこうしたローン債権を束ねて証券化し、積極的に投資家に販売した。

 歯車が狂い始めたのは06年ごろ。景気拡大に伴う金利上昇でローン返済負担が大きくなり、貸し倒れが目立ち始める。これまで上昇していた住宅価格も下落に転じたことで、損失回避のためサブプライムローン証券化商品の保有者が一斉に手放し始めた。

 そんな中、仏金融大手BNPパリバが07年8月、系列ファンドの新規契約・解約の停止を発表。「パリバショック」が発生する。そして08年3月、サブプライム投資で大きな損失を出した米国第5位の投資銀行、ベアー・スターンズがJPモルガン・チェースに身売りされる。

 次の焦点となったのは同4位のリーマン・ブラザーズ。英バークレイズによる救済が模索されたが実現せず、公的資本の注入も見送られ、9月15日に破綻した。金融機関の連鎖破綻が起こるとの不安から市場の流動性は枯渇、資本市場は機能不全に陥った。

 米政府は事態収拾のため議会を説得し7000億ドル(約77兆円)の公的資金で金融機関を救済しようとしたが、世論は反発。いったんは議会が救済案を否決するなど混乱した。その後、米国で金融規制が強化されたほか、世界的な大規模金融緩和にもつながった。

人材流動化でITと金融が融合

 世界に目をやれば、金融機関のビジネスモデルは急速な変化を迫られた。金融機関に対する規制が強まる一方、落ち込んだ実体経済を立て直すべく各国の中央銀行が金融緩和に動いた結果、低金利が常態化して収益を圧迫。運用は手詰まりとなった。

 そこで台頭してきたものの一つがオルタナティブ投資。ヘルスケアやAI(人工知能)、インフラなど、専門領域に特化した小規模な投資ファンドやPE(プライベートエクイティ)ファンドが次々と立ち上がり、規制の厳しい資本市場を介さずに企業に資金を投じる動きが目立ってきた。

 業界内の構造だけではない。世界では金融業界そのものの立ち位置にも大きな変化が押し寄せた。

 「金融だけではやっていけないという悲観論がアカデミックの世界にも広がっていた」。リーマンショック直後の米国を振り返るのはマネーフォワード取締役兼Fintech研究所長の瀧俊雄だ。

 当時、野村資本市場研究所で金融機関のビジネスモデルについて研究していた瀧は、米スタンフォード大学経営大学院に留学していた。そこで目の当たりにしたのは、同級生たちが大学院でMBAコースを履修するだけではなく、工学や再生エネルギーなど別の専門分野でも学位を取ろうと必死に勉強する姿だった。かつて大手投資銀行などが集めていた優秀な人材は、IT企業をはじめとする先端分野に流れていた。

 それは一過性の出来事ではなかった。

 「『ディテンション(引き留め)』という単語が合言葉のようになっていた」。みずほフィナンシャルグループ執行役員の宇田真也は話す。17年秋、米金融機関の人事戦略を学ぼうとニューヨークを訪れた宇田に対し、現地幹部が繰り返したのがその言葉だった。「ハーバードなど名門大学を卒業する学生は、みんな(シリコンバレーのある)西海岸に行きたがる。彼らをいかに(ウォール街のある)東海岸に引き留めるかに心を砕いている、というんです」

 地殻変動の結果、新たな潮流として台頭したのが、ITと金融を組み合わせた「フィンテック」だ。

 リーマンショックで規制が厳しくなった米国では「貸し渋り」が広がった。影響を一番に受けたのが、若年層や低所得者、中小企業経営者など、比較的資金の少ない人々だ。既存金融機関が提供するサービスへの不満に対応する金融サービスとして産声を上げたのがフィンテックだった。

 インターネットを介して資金の貸し手と借り手をつなぐソーシャルレンディング、AIを活用した融資、手数料を抑えた決済プラットフォーム……、新しいサービスが次々と誕生していった。マネーもフィンテックに流れる。コンサルティング大手、米アクセンチュアの調査によれば、フィンテック企業への投資額は15年には220億ドル(約2兆4200億円)と、5年で約12倍と急拡大、うち約半分を米国への投資が占める。リーマンショックは、米国を一大フィンテック先進国にしたのだ。

 日本でも触発された動きは出ている。決済支援や海外送金などで英米のベンチャーが進出したほか、日本のスタートアップが新サービスに乗り出している。だが、既存金融の存在感は薄い。

 「銀行のサービスは、誰でも等しく使えるように設計しなければいけない。(高齢者にとってはハードルの高い)デジタルサービスの採用は難しいというジレンマがあった」。三井住友銀行出身で、送金・決済アプリを手掛けるKyash(東京・港)の鷹取真一社長は話す。

 一方で、従来型のビジネスは行き詰まりを隠せなくなった。銀行貸し出しは伸びず、余った資金を運用するにも長引く低金利で国債の利回りは低下。自らフィンテック企業と連携を模索するなど、ここへきてようやく変化対応に必死になっている。

野村HDの計算違い

 証券も同様だ。リーマンショック後、個人の金融資産は1800兆円とむしろ増えたが、その約半分が依然現預金に滞留している。目先の手数料獲得に固執する営業慣習から抜けきれず、投資人口の増加を阻む。投資余力のある顧客層は高齢化しており、事業承継や相続など、様々な悩みを抱える。従来型のサービスだけでは対応できない限界も見え始めている。

 もちろん、リーマンショックを機に攻めに動いたところもある。野村ホールディングスは、08年に破綻したリーマンの欧州、アジア部門を買収した。

 外資系金融機関ならではの迅速な意思決定力、市場環境に応じた新商品の開発力、そしてグローバルな顧客網を手に入れれば、日本の金融機関が自力では達成できなかったであろう海外展開もしやすくなる。リーマンショックは日本の金融機関が世界で戦う足掛かりを手に入れる千載一遇のチャンスでもあった。リーマン破綻後、1週間で「商談」を決めた野村の素早さは当時、市場の注目を集めた。

 だが、09年以降も米国債の格下げや欧州債務危機など世界のあちこちで金融不安はくすぶり続けた。「リーマンショックの後遺症、とりわけソブリンリスクが、買収したリーマン欧州部門の逆風になったのは否めない。野村にとって混乱が長引いたのは想定外だったのでは」。元リーマン日本法人社長の桂木は野村の「不運」を嘆く。

 買収で引き継いだ人員約8000人の高額報酬も重荷となった。17年3月期に7年ぶりに海外事業が黒字になったが、16年に欧米の法人部門で1000人規模のリストラを実施した影響が大きい。「割安な買い物だったが『隠れたコスト』の影響を重要視していなかった」。ある野村OBはつぶやく。

 銀行では三菱UFJフィナンシャル・グループがリーマン破綻直後、モルガン・スタンレーに90億ドルを出資した。米国の名門を持ち分法適用会社とすることで、投資銀行業務を強化。18年3月期では連結最終利益9896億円のうち、1718億円がモルガン・スタンレーの利益貢献分だった。

 こうした攻めに出たのはごく一部の金融機関にとどまる。守りから反転のきっかけをつかめないまま緩慢な衰退に至るところが多い。金融庁の有識者会議がまとめた報告書によると、東京都を除く46道府県のうち、地方銀行が1行しかなくても存続するのが難しい地域が23県もあるという。高い収益力が評価されていたスルガ銀行は、シェアハウス向けの不適切融資を続けてきたことが明らかになった。3メガバンクは昨秋、収益構造の改革を目的に、店舗や業務量、人員の削減を発表した。

 人口減という構造問題とフィンテックによる侵食に直面する日本の金融。かつてのバブル崩壊を生き延びた経験でリーマンショックを乗り切ったものの、それが守りに拍車をかけたという皮肉から脱することができるのだろうか。

(武田 安恵、藤村 広平)

 三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)傘下のユニオン・バンク・オブ・カリフォルニア(現MUFGユニオンバンク)に経営トップとして着任したのは、2007年5月。現地に赴いてすぐ、違和感を覚えました。私は1980年代に同銀行の前身に出向した経験があります。その時代とは住宅ローン市場が様変わりしていたのです。きちんとした返済計画を契約段階で立てていない、借り入れから5年間は返済が始まらず、借り換えが前提になっている……。30年前なら当局が認めなかったであろう融資が、当たり前のように実行されていました。

 着任数カ月でパリバショックが起きたときには「これは大変なことになる」と直感しました。ユニオン・バンクはサブプライムローンの取り扱いこそありませんでしたが、保守的な引当金計上など、最悪の状態への対応を準備するよう指示したのを覚えています。

 ただし、米国でも危機感を持っているのは少数派のようでした。今でも思い出すのは(米金融界の経営層で構成する業界団体である)金融サービス円卓会議理事会の席上での出来事です。

 2008年初夏の会合だったでしょうか。FRB議長だったバーナンキさんは「我々は状況をコントロールできる」と話していました。その後、リーマン・ブラザーズ破綻が迫った直前の会合でも「米国の状況は(不良債権問題に端を発した)10年前の日本の金融危機より傷が浅い」といいます。

 私は彼の話の直後に手を挙げました。「日本は金融危機を自国内で収束させた。ところが、パリバショックをみても分かるように、米国発のサブプライムローン問題はもう欧州に飛び火していますよね」。議長からは「既に世界の金融当局との連携は始まっている」との回答。米当局は直前になっても楽観姿勢を崩していませんでした。

 リーマン・ブラザーズの経営破綻から1週間で、MUFGはモルガン・スタンレーに対する9000億円の大型出資を決め、スピーディーな資本提携劇として驚かれます。これには土台がありました。00年ごろ、東京三菱銀行では既にモルガンとのグローバルアライアンスの協議を進めていたのです。「ウィッシュボーン」と名づけられたその極秘プロジェクトは合意間近でしたが、01年の同時多発テロで延期になりました。しかし1年以上にわたったプロジェクトの結果、モルガンの経営分析やアライアンスの原案が既に出来上がっていたのです。

 欧米の投資家と複雑なファイナンスの議論を英語でこなせる人材は日本の銀行にはなかなかいません。そもそも日本の銀行員は資本市場に弱い。世界の名だたる企業や投資家にリーチする本格的な投資銀行業務を取り込むために温めていたグローバルな提携構想が、リーマンショックにより、思わぬ形でよみがえったのです。もともとの下地がなければ、危機下であれだけ速く提携がまとまることはなかったでしょう。

 リーマンショックから10年、日本の銀行は大幅な構造改革を余儀なくされています。これには、自らが招いた側面もあります。というのも、最大のピンチだった1990年代後半の金融危機で銀行は組織防衛を優先して取引先を絞り、「貸し渋り」や「貸し剥がし」との強い批判を受けました。そうした経験をした日本企業は、銀行からの借り入れを減らしています。この流れはリーマンショックで決定づけられました。今や上場企業の6割が無借金経営です。マイナス金利うんぬんという以前に、戦後の典型的な企業経営のありかたが変わったのです。銀行は今後どのように経営の転換を図るのか。この課題に答える道筋は、まだ示されていません。(談)