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消えた「ハンコ代」で兄と3人の妹が対立

「父のとき」と「母のとき」が同じとは限らない

江幡吉昭

 相続を機に発生する相続人間の争いごと、いわゆる「争族」ですが、もめごとの多くは突然、始まるわけではありません。実は何年も前に伏線があり、それが親からの相続を契機に表面化するのです。今回はそんなケースです。

 埼玉に父、母と長男夫婦が二世帯住宅に暮らす一家がありました。父は元公務員。それなりに出世したため、退職後も一般企業に勤めました。

 父は長く安定収入があったこともあり、間取りがすべて1ルーム、10室を備えたアパートを同県内に1棟保有していました。また大手都市銀行や大手メーカーの株式を数万株持っていました。父は十数年前に遺言を残さないまま他界しましたが、相続にあたって特にトラブルはありませんでした。

 もめなかった理由は、それなりの「ハンコ代」が支払われたためです。

 何ももらえない妹たち3人は代償分割として、母と長男から1人あたり合計1000万円弱をハンコ代相当としてもらうことになったのです。

 代償分割とは、相続人の一人が財産を取得する代わりに、他の相続人に金銭を支払う遺産分割方法のことを言います。この金銭を受領する代わりに遺産分割協議書にハンコを押すので、この金額をハンコ代と言うこともあります。

 今回のケースでは、母と4人の子供による遺産分割協議の結果、母と長男が財産のほぼすべてを取得。一方、長男を除く3人の子供はハンコ代として、1人あたり計1000万円弱のお金を母と長男から受け取ったのです。

 ハンコ代は相続財産全体の評価額や相続人の人数に左右されると思われがちですが、そうとは限りません。「その場で数万円」ということもあれば、大きな金額になることもあります。このケースではアパートや株は基本的に母と長男が取得する代わりにハンコ代を渡したのですが、残りの3人はそれなりに納得して印鑑を押しました。

 それから十数年が経過し、長男とほかの3人との関係は以前ほどよいものでなくなりました。

 理由は長男が二世帯住宅で同居する母をことあるごとに怒鳴るようになったことです。そればかりか、来客があると、足腰の弱った母にお茶を出すように命じたり、記憶力が低下した母に辛らつな言葉も投げかけました。ほかの3人の子供は心配しますが、母は同居する長男を悪く言いませんでした。

 母が亡くなったのはそんなときでした。

母の相続でもハンコ代を漠然と期待したが

 長男と母は父から引き継いだ資産のうち、株は運用に失敗。大きな含み損となりました。アパートは築年数が経過しても修繕などがおろそかになりました。その分、入居者が集まらなくなり、家賃を下げて空室を埋めました。このため、収益性が悪化。借り入れを返済すると手許にお金が残らなくなりました。父の遺した現金のほとんどはほかの3人にハンコ代として渡していました。にもかかわらず、生活レベルは父の死後も同じままでした。

 一方、ほかの3人は父が亡くなったとき、アパートや株は兄が母と引き継いだため、兄はお金を持っていると思っています。このため、母の相続でも1000万円前後をハンコ代としてもらえるだろう、と漠然と期待しました。

 母は懇意にしている金融機関に相談し、公正証書遺言を残し、「長男を遺言執行者」とし、「全財産を長男に相続させる」としていました。

 ほかの3人はこれに対し、「父は長子相続だとかつて言っていたから、財産が全部、長男にわたるのは仕方ない。それでもハンコ代が1円もないなんておかしいだろう」と怒りました。これに対して、兄は「資産はあるが、お金はない」と伝えましたが、3人は納得しませんでした。

 この連載で頻繁に申し上げていますが、遺言があれば遺産分割協議書を相続人の間でまとめる必要は本来ありません。このため、遺留分について遺産分割協議で合意するような場合を除いて、ほかの3人は遺産分割についてハンコを押すタイミング自体がありません。

家族に深い遺恨が残る結果に

 つまり「ハンコを押す必要がないのだから、ハンコ代も何もありません」ということなのです。金融機関は遺言作成にまでは関与したものの、全財産を長男に相続させる内容で「明らかにもめることが想定できる遺言」だったことなどから遺言執行者になっていませんでした。

 残った3人のうち長女は夫を亡くすなどもあり、暮らし向きが厳しく不満を募らせました。裁判などにはならなかったものの、長男は手元にあるわずかなお金をほかの3人に支払い、家族に深い遺恨が残る結果となりました。